オオツノジカの草はみ

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【書評】どうぶつの森とデジモンとラブプラス【テッド・チャン】

最近(と言っても2ヶ月以上前)、SFファン必読の一冊が発売されたのはご存知だろうか。

 

その名もテッド・チャン著「息吹」。

 

息吹

息吹

 

 

前作「あなたの人生の物語」から、約17年ぶりの刊行となる短編集だ。

 

あなたの人生の物語 (ハヤカワ文庫SF)

あなたの人生の物語 (ハヤカワ文庫SF)

 

 

 

やはりどの短編も完成度が高く素晴らしい。

9つの短編の1つに、「ソフトウェア・オブジェクトのライフサイクル」というものがある。今回はこちらを紹介したい。

 

テッド・チャン史上最長の作品であるが、あらすじをざっくりいうなら、「AIと人間の個人的関係の醸成」である。

 

さらに、はぶき倒して言うなら、「放置した『どう森』に対して人が持つ罪悪感は、ゲームへの情熱や習慣に対してか、ゲーム上のキャラクターに対してか」を考える好例である。

※「どう森」の部分は、「Nintendogs」、「ラブプラス」、「モンスターファーム」などにご自由に変換してください。

 

もう少し詳しく説明すると・・・。

※多少のネタバレがあるので、純粋に楽しみたい方は一読されてからをお勧めします。

 

 

「ディジエント」という動物を模したAIエージェントたちと人間の物語。「ディジエント」たちは生まれた時は人間の幼児並みの知能しかないが、人間との関わりを持つことで徐々に成長していき、いずれは自らに人間と同じような「責任」を持ちたいと願うようになる。

主人公は動物園での仕事の経験を生かして「ディジエント」を万人に愛されるパートナーとして育成・製品化するが、多くの人々は、しばらくすると生活の変化や時には「飽き」から「ディジエント」を手放してしまう。その上、主人公の開発した最初期の「ディジエント」たちはその仕様上の問題で、だんだんと仲間が消えていくデータ上の箱庭の上に縛り付けられている。

新しい仲間たちと合流するためのアップデートには、莫大な資金がいる。しかし、もう数人まで減ってしまった最初期の「ディジエント」たちと人間のパートナーにはそんな資金力もなく、すぐにお金を稼ぐ力もない。そこで彼らに迫られた選択とは・・・。

 人間とAIの愛の話は多く語られてきたが、そこに至るまでの現実的な道のりや、パートナーである以上必要な互いの「責任感」を、チャンは深い洞察から描いている。

 

子供の頃、収入印紙ほどのサイズの画面にいるデータ上のモンスターを育てるゲーム、デジモンが流行した。「たまごっち」の丸いフォルムではなく、どこか「檻」を連想させるような無骨な機体に、当時の男子小学生は興奮したものである。

買ってもらって十数時間、私と相棒の「ボタモン」は憧れの「グレイモン」を目指して、ただボタンを連打するだけのトレーニングや「デジタル排泄物」の処理に励んだ。

 

しかし次の日の夜、私は不注意からデジモンの機体を布団の下敷きにしてしまう。翌々日気がついた頃には私の相棒の姿は、溜まりに溜まった「デジタル排泄物」の隅に追いやられていた。

 

一命は取り留めたものの、自分の不注意のくせに著しくテンションを損ねた私は、その後の世話も怠るようになった。

そして相棒「ヌメモン」は、この世を去った。

(見慣れない十字[墓石]が画面に広がっているのをみた時は、「進化・・・?」なんて思っていた、その後すぐ察したが。)

 

「ジョージタウンの荒れた墓地」の写真

 

この時私は、相棒の死に対して、「もう世話をしなくていい、世話をしないことで罪悪感に苛まれなくていい」と、ほっとしてしまったのである。

 

ここで考えたいのは、「たまごっち」や「デジモン」は、そのゲームの仕様として避けられない「死」が用意されているということである。ある意味で、人間側にとっては自動的な「責任」の回避が行われる。

死んでしまったら爪楊枝でこの小さいボタンを押してね、またはじめから復活するから。というような具合だ。

 

ところが、先述したゲーム(「どうぶつの森」、「ラブプラス」などなど)のキャラクターたちはどうだろう。

 いくら彼らを放置しても、ゲーム上の不利益は多少あっても「死」にはつながらない。何なら画面に映っていない間にも、バックグラウンドで彼らは意思を持って行動している(ように思える)。

 

こちらで消去しなければ永遠にデータ上に残り続け、そこに生き続ける村や恋人は、多くの人々の寝覚めを悪くしたことだろう。たとえデータであれ、「意思(に思えるもの)」の存在の是非を決めるのは辛い。しかし、自分が関わり続けることをせずに、その箱庭に放置し続けるのもまた辛い。

 

「白い砂時計」の写真そしてその感情は、ただのデータにかけてきた自分の「時間」や「情熱」に対してか、それともデータやキャラクター「そのもの」に対してかを、酷く曖昧なものにもしている。育成ゲーム、シュミレーションゲームを経験した多くの人が、後者の感情を持ちうるのではないだろうか。(データ上の存在と人間の境は緩やかに取り払われつつあるように感じる。)

 

しかし、もしこの住人たちが、本当の意味で自分自身の足で歩んでいく能力と「責任感」を持ったとしたら?人間はいつ、どこで、どのようにして彼らの手を離すのか。この短編は、そういった示唆に富む良作だ。

 

「怠惰な秋田犬」の写真

数年前、某有名犬型ロボットを「aiboのお葬式」なるものに出した人の動画を観た。そのロボットたちは自分自身に責任を持つことはない。そのため、最後の最後まで、飼い主たちは死を与えることで人間側だけが持つ責任を果たした。(家具に引っ掛かって止まったルンバを、誰が本気で叱り付けるだろう。)

 

しかし今後、高度に発達していくAIたちは、自分自身のあり方に責任感を持ちうるかもしれない。AIのパートナーというものが生まれるのも時間の問題かと思えるような現代において、人類は新しい関係性の創造によって生まれる「別れ方」も一考していかなければならない、そのような暗示をチャンは与えてくれている。